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モーツァルト/ミサ・ソレムニス [CD]
通勤時には、ラジオを聴きながら駅に向かってゆくことが多い。ちょうどこの通勤時は、NHK-FMの「クラシックカフェ」という番組がオンエアされている時間帯にあたる。15分程度の短い時間とはいえ、ここで聴いた曲のいくつかについては、今だに記憶に残っているものもある。
先日、いつものようにこの番組を聴いていると、モーツァルトの合唱曲がかかっていた。寒い朝、合唱の響きが、この日の朝の気分によくかみ合っていた。ところが、ラジオの調子がよくない。どうも乾電池が消耗していて、音がどんどん小さくなってゆく。低下する音に必死にしがみつこうとしたのだが、やがてほとんど聴こえなくなってしまった。駅に到着するまで、不完全燃焼というのか、物足りなさが残ってしまった。
後から調べてみると、この時かかっていた曲は、モーツァルト作品K.339ということだった。帰宅してから、昨年購入したモーツァルトのミサ曲全集を取り出してみる。10枚組の全集の中から、さっとみて、朝方聴いた曲を見つけた。K.337があったので、この曲だと思った。
どこでどう間違ったのか、K.339をK.337と思い込んでしまったようだ。
何か違うよう気がしたものの、このミサ・ソレムニスK.337をそのまま聴いてゆく。キリエ、グロリアと続いた後、「教会ソナタ」、という曲が入ってきた。4分程度のオルガンを取り入れた合唱のない曲。「教会ソナタ」というのは初めて聴いたのだが、モーツァルトの曲にオルガンが入ったものを聴いた記憶があまりなかったので、ちょっと新鮮だった。控えめながら、しっかり旋律を弾くオルガンの音色がとても心地よい。曲は再びミサ・ソレムニスに戻り最後まで聴いてゆく。曲は別のものだったが、この日のムードには一致していた。音楽は身体にすっと浸透してゆく。よくわからなかったが、どうもミサ・ソレムニスの途中に「教会ソナタ」を挟み込んだような構成だった。
その後、別の「教会ソナタ」も聴いてみた。
聴いているうちに、今度はオルガンの入った曲が聴きたくなった。しかし、手元にオルガンの入った曲があまりない。CDもそこそこ増え、ある程度基本的なものはだいぶ網羅してきたつもりだったが、ことオルガンものについては、ほとんど手元にないことに改めて気がついた。そうした中から、レオンハルトのボックスセットの中に収録されていた数枚のオルガン演奏を聴いてみた。
決して、オルガン演奏が苦手という訳ではないのである。
否、むしろオルガンの音には多少のこだわりすらある。クラシックを聴く前のある時期、ジャズのオルガン奏者の演奏をまとまって聴いていた。ジミー・スミス、ラリー・ヤング、そしてベイビーフェイス・ウィレット・・・。
低音部から、どこかくすんだ色彩の音色が惹きつけてやまない。音色がいろいろあり、テンポを変化させることで表情の幅も広い。重心の低いグルーブ感、温かみのあるスローな音。トリオ演奏では、ベースの音も担当することがあり、音の底で支えながら、どこか揺れや浮遊感を感じさせる。そして高音に上がってゆくときのあの上昇感。アップテンポにはいってゆくと、ぐいいぐいと、延々と敷衍してゆくリズミックさ。
こうしたことが下敷きとなって、オルガン演奏は未だにジャズと強くリンクさせてしまうのだろう。このためクラシックのオルガン演奏が手薄になったのかもしれない。
ジャズ演奏とは違ったクラシック音楽のオルガン曲ではあるが、音色の魅力は十分に感じられる。
単独オルガンのみによる、レオンハルトのバッハやバロック時代の曲演奏を聴きながら、ただその音色に耳を傾ける。ジャンルは違うが、やはり、この楽器の音は特別なものにおもえてならない。
CD:Mozart Complete Masses / Kolner Kammerchor , Collegium Cartusianum ,PETER NEUMANN 1989-1991
モーツァルト:ミサ曲全集 /ペーター・ノイマン&ケルン室内合唱団、コレギウム・カルトゥジアヌム
ミサ・ソレムニス ハ長調K337、教会ソナタ第17番ハ長調K336
R.シュトラウス 「ドン・ファン」 [コンサート]
平日の夜開催のコンサートは、仕事の終わる時間の都合上、めったに行くことができない。19時開演のケースが大半であるため、開演時間にはどうしても間に合わなくなってしまうのである。もちろん、猛スピードで会場に向かって走り、ギリギリ滑り込むということは可能かもしれないが、さすがにそこまではチャレンジしたことはまだ、ない。
とはいえ、前半の途中から入って聴く、と割り切ってしまえば問題はあまりないだろう。今回も、前半プログラムが2曲構成だったので、冒頭の曲をスキップして、次の曲から聴くことにした。とはいえ、実際には、すっきり割り切ってしまえるようには、なかなかゆかないのだけど。
この日はオール・R.シュトラウスのプログラム。1曲目は「死と変容」。ホールの外側で待っている間、ロビーで、ホール内でのライブ映像がモニターで見ることができ、また音源もロビーの空間に流れている。やはり、聴いてみたかった曲のひとつだったので、モニターを眺めていた。
ホールの外側で待ちながら、「死と変容」の最後の部分を聴いていた。そしてようやく、次の曲、「4つの最後の歌」より入場。ソプラノ独唱と管弦楽の曲。やはり最後に歌われた、「夕映えのなかで」がよかった。じっくりとした時間の流れの中を、しっとりとした心模様と情感とを携えながら歌われてゆく。そして中盤の歌の冒頭と終わりには演奏部分があって、特にラストへ向かう淡い時間がひときわ印象に残ってゆく。
前半が終わり後半は管弦楽曲を2つ。
今まで何度かR.シュトラウスの管弦曲は、耳にしてきたものの、容易には馴染むかことができないものが多くあった。この日後半に用意された2曲についても、いづれも距離感がまだ残っている状況だった。
「ドン・ファン」は楽章のない20程度の交響詩。冒頭は勢いのある印象的なフレーズが飛び出してくる。さて、この後からの展開をどのくらい聴けるだろうか。
バイオリンのソロが入り、曲はなめらかに、流れ出す。
光沢のある、きらびやかな音色が空間に開放されてゆく。
あまりに滑らかな音の手ざわり感に、しばし驚かされる。不慣れな曲のはずだったのに、スムーズに聴き入っている自分があった。
そして、ラストは「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。けっこうあっちこっちに音が動き回ってゆき、どたばたした感じの曲。
しかしこの日の演奏は、この多少とっちらかっているような曲を、なんとも自然につないでゆく。音から音へのつながりを見失うことなく、接ぎ穂が残ってゆく。そして、常に動きのなかから派生してゆく音楽が、とてもナチュラルな手ざわりを残してゆく。
なんというのだろう、上質な時間、と言えばいいのだろうか、そんな感じの時間を味わっていた。シルクの手ざわりにも似たような感触。コンサートホールで体感する音によって、ぜいたくで、ゴージャスな時間が流れていた。
指揮者、上岡敏之の生み出す音楽は、なんという肌理の細やかさを放つのだろうか。数年前に初めてこの指揮者の指揮で聴いた時にも非常に驚かされたが、この日も、豊かな表情をもつ音楽の中にある動きそのものを、止切らせることなく、滑らかにつないでゆく。この日はP席(ステージ後方席)だったので、指揮者の表情がより一層よく見ることができた。なんとも、嬉しそうに、音楽をすくい上げてゆく、その動きそして表情が、如実に物語っていたような気がした。
2012/1/17 読売日本交響楽団 サントリーホール
ドヴォルザーク 交響曲第9番 [コンサート]
今年度初のコンサートホール。
この日は、全曲ドヴォルザークのプログラム。メインの第9番は既に何度か聴いてきたので、この日の注目は、今まで一度も聴いたことのない交響曲第3番だった。ドヴォルザークの交響曲は、第7番、8番、そして9番は、聴く機会が何度かあったが、それ以前の作品になると、未だ聴いたことがない。
初めてコンサートで聴くことになる交響曲。ということで、最近の定番となりつつある、事前予習の必要性があったのだが、しかし今回、なぜか、この予習を欠かしてしまった。理由は明快、単に前もって予習用のCD購入を怠ってしまった、ということに尽きる。
とにかく、そうしたわけで、久しぶりに、ぶっつけ本番になってしまった。
1月の肌寒く、冷えた空気は根強く残っていたものの、強い日差しも感じられる。雲ひとつ無い空、寒さと強い日差しが同居する中、コンサートホールへと向かった。
開演前は、この日の注目曲、交響曲第3番に関心を寄せつつ、その一方で、第9番に対してはあまり注意をはらってはいなかった。
しかし、終演後、ホールをから帰路に向かう時になってみると、気持ちは交響曲第9番一色に染まっていたのだった。
交響曲第3番。この日はいつもより、どこかリラックスモードにあっただろうか、やや緊張感が薄く、曲の冒頭からふんわりと、追いかけてゆく。第1楽章は全体の雰囲気は気難しくないものの、うまく方向性がつかめない。続く第2楽章に入ると、ゆっくりとした流れが続いてゆき、のどかな丘陵地を思い浮かべていく。やがて曲は最終の第3楽章。この楽章はこの曲のなかで最も印象に残った。全体の動きがあり、輪郭も多少見えてきたのだが、やっと感触がつかみかけたところで、この交響曲は終わってしまった。
淡い印象が残ったものの、もう一回聴いてみたいと思った。それにしても、やはり予習をしてこなかったことが悔やまれる。
そんなことで後半のメインプログラム。最近も聴いた気がしたが、振り返ってみると、ホールで聴くのは2年ぶりくらいになるだろうか。随分久しぶりになる。
冒頭の第1楽章。しっかりとした旋律が短い時間の中で、次々と繰り出されてくる。多彩な曲調がめまぐるしく、惜しげもなく投入されてゆく。全体の感触は馴染みあるものの、細部に耳と目を凝らしてゆくと、思っていた以上に、発見すべき箇所がでてくる。金管楽器、管楽器と弦楽器のバランス、音の強弱、そしてテンポの上下の動き。変化の様と全体感のスケールの大きさに改めて驚かされる。
第2楽章は有名な旋律で、今までさらっと聴いてきた気がする。ところが今回中心メロディから離れた箇所のいくつかに注意をはらってみると、今まで気がつかなかった箇所がいくつかあった。例えば、イングリッシュ・ホルンのソロの前後における、旋律を支える微弱な弦楽器の音。今までこんなところまで、深く関心を寄せなかったのだが、じっくりと聴いてみると、かすかな音の中にも大切な流れがあるような気がした。そしてこの楽章後半あたりで、ふっと軽い小鳥のようなさえずりの音が入る部分。さらに終盤あたり、メロディをフロントの弦楽器奏者のみで演奏する箇所がでてくる。やがて他の楽器の演奏がとまり、一瞬、弦楽四重奏のようになる。こうした細かな箇所はあまり注意していなかったこともあって、とてもフレッシュな気持ちで聴いていた。
少しはわかってきたかな、という気持ちはいつのまにやら吹っ飛んでゆき、新鮮な気持ちで対面しなおす。
第3楽章はスケルツォ。急に天候が変化し、黒雲の到来とともに嵐の予感がやってくる。切迫感をあらわす音の鋭さとティンパニの音。しかしこの後、曲調ががらりと変わってしまう。よくよく聴いてみると相当な音の落差があるように感じた。しかしその落差の中を、何度かスケルツォに戻るのだが、この音の受け渡しとういうのか、短い時間の中で違和感なくつないでゆく、その変化のさせかたが、すごいと思った。
第4楽章は第3楽章の流れを引き継ぎ、しかし中間部はゆっくりとした曲調も挟み込んでゆく。最後は勢いを増しながら、フィナーレへと流れ込んでいった。こうしてあっという間に、この多彩なメロディをちりばめた音楽が過ぎていった。
下野竜也指揮の読売日響のオーケストラは、全体の推進力を最後まで保持しながら、細部のこまかな音にもきっちりと配慮をし、最後まで曲を導いていったと思う。そうした音があったからこそ、再発見できたことが多かったのだろう。
さて、予習を忘れてしまった交響曲第3番であるが、復習用に今度CDを購入しておこうか。
2012/1/9 読売日本交響楽団 みなとみらいホール
ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔中・後期8曲演奏会〕 [コンサート]
あれからもう5年が経過したのか。
今からちょうど5年前の、2006年大晦日、東京文化会館の小ホールでベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を聴いていた。そして、あれから5年後の2011年。再びベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を聴いていた。同じ日付、同じホールで。ただ今回違っていたのは、曲目にラズモフスキー3曲が加わったこと。
5年前。まだクラシック音楽との係わりは濃厚でなく、少しづつ興味を広げている真っ最中だった。弦楽四重奏曲は当初から意識的に聴き進めていたこともあったが、まだまだ十分聴いているわけでなかった。この時点でベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、既に何曲か耳にしていたものの、断片的。こうしてまとめて聴ける機会で何かが見えてくるかもしれない、という期待感があった。
今となっては当時のことの細部は思い出すことができないが、とにかく濃密な時間が長時間にわたって続いたことは覚えている。途中の何度かの休憩時間に、気分転換をはかろうとするが、次第に消化しきれなくなってきた音楽に麻痺した感じがあった。
今回、聴きにいこうと思ったのは、あれから自分がどの程度変化したのか、確かめてみたかったからかもしれない。もっとも、過去のある地点と現在時点の点どうしを比較することは、容易ではないだろうが、どのくらい深く聴き入ることが可能になったのか、それを見てみたかった。
最初はラズモフスキーの3曲。「ラズモフスキー第2番」は過去に聴いており、全体像がだいぶ掴めていたため、全曲を通じて十分に聴けた気がした。何よりも、自分はこの曲はすごく気に入っている、ということを改めて確認。特に第2楽章は、心がぴたりと寄り添いながら感情移入ができる、そんな楽章。
そして、続けて「ラズモフスキー第3番」。第1楽章の不穏な冒頭から一転して抜けるような澄み切った音に変わる瞬間、第2楽章からのムードにさっと変化を付ける第3楽章、そして第4楽章の、めまいを覚えるくらい圧倒的な高速なスピード感。あらためてラズモフスキー第2番 と第3番のバランスの好さを意識させられた。
今回作品130の「大フーガ」付を聴いたが、この曲については、ほぼ一年前に同じ場所で、しかも同じ楽団で聴いている。そうした条件があったものの、古典四重奏団のこの日の演奏は、前回の驚きや発見をさらに上回るかのような素晴らしい演奏だった。
冒頭から第3楽章までの連続性の中に多くの変化がある。第1楽章の流麗な流れ、そこから短い第2楽章のギアチェンジ、そして第3楽章の歌のしなやかな流れ。第4楽章のライトな舞踏から第5楽章のカヴァティーナへ。このカヴァティーナはいい曲だと思っていたが、この日、心の底から曲の旋律に触れた思いがした。確かにこのメロディだけ切り取っても素晴らしい、とは思う。しかしこの長い曲の変化の中で、この歌の抒情性が心に響いてくるのだと思った。
そして最終楽章の「大フーガ」。前回聴いた時初めてこの楽章が全体の部分を構成していることをかなり理解できたと思っていた。しかしこの日、頭の中ではなく、身体感覚から掴めた気がした。前半の複雑で方向性の見えてこない時間をじっと追従しているうちに、中盤あたりから旋律の断片のようなものが浮き上がってくる。粘り強く、耳を澄ませながら、そこまでの全体の流れと合流する地点を待ち構えている。やがて後半あたりに、支流の流れが徐々に本流に交じり合ってゆく。その合流した感覚が、フィナーレの動きの中で全体性を照射してゆく。
以前よりも聴けるようになったのかどうかよくわからないが、ここ数年間で聴いてきた体験は、かなり役立っていることを今回感じた。以前は初めて聴く曲が多かったため、方向性が見えなく、その瞬間瞬間だけに意識を集中してきた気がする。それはそれでよかった。しかし今回、曲の全体像をある程度知っていたことで、常に作品の全体を頭の片隅に置いて各楽章を聴くことができたと思う。今回、数年かけて聴き馴染んできた感覚が、5年前とは違っているのかもしれないと感じた。
コンサートも後半に入ってくると、さすがに疲労感が出始めてきた。思考も徐々に働かなくなり、集中力も落ちてきた中で、作品132が始まる。
しかし、第2楽章を過ぎ、第3楽章に入ると、不思議なことに全身でただ音楽を受け入れ始めてきた。モルト・アダージョのゆっくりとした、深みのある流れが、時間から開放してゆく。静かな気持ちの中、やがて旋律が心に触れてゆく。この時、どれほど音楽がしみいるように入り込んできたのか、うまく語ることはできないような気がする。
この日、長時間にわたる時間を経過した中で、疲れや、半ば混濁しはじめてきた意識の中で、全身に音楽が差し込んできた。
こばねることなく、ただ委ねた感覚の中で、全てをあるがままに受け入れる。やがて音楽は全身に広がってゆく、そんな感覚があった。こんな聴き方ができるとは想像できなかったが、音楽の芯の部分に触れた瞬間があったのかもしれない。
そしてようやく最後の作品135。重い曲から一転して、短く軽めの曲。最後の曲ということもあったが、それまでの切り詰めた感覚から離れて、シンプルな曲調が、心地よい。でも、どこか軽さだけはない表情がところどころにちりばめられてもある、そんな曲。
長い旅の最後に、清涼感すら感じさせる曲が、少しばかり疲労感を和らげてくれた気がする。
午後2時開演から7時間を超え、最後の曲が終わったのは9時15分過ぎのことだった。
5年前から比較して、どのくらい聴けるようになったのか、明確にはわからなかった。しかし、現時点の自分として、どのくらい聴けたのかは、見えてきた気もする。結局、過去と比べるというより、今現在の自分がどう聴くのか、どう向き合うのか、そしてどう自分との係わりを見つけるのか、そうした自分の立ち位置を確認することはできた気がする。とにかく今回もまた、濃密な時間の体験だった。
演奏会が終わってから、年末の冷たい空気に触れながら、この先もまた何度となく、弦楽四重奏曲と向き合ってゆくのだろう、そんなことを思いつつ、帰路についていった。
ベートーヴェン弦楽四重奏曲〔中・後期8曲演奏会〕
/2011/12/31 東京文化会館小ホール
(クァルテット・エクセルシオ、古典四重奏団、ルートヴィヒ弦楽四重奏団)
昨年末と2012年の始まり [その他]
昨日大晦日の12/31は、やはり、コンサートで締めくくった。
年末の企画ものコンサートはいくつか開催されているが、今回出かけてきたのは上野の文化会館小ホールでおこなわれた、「ベートーヴェン弦楽四重奏曲」の演奏会。
午後2時にスタート。ベートーヴェンの中後期の弦楽四重奏曲のうち8曲を一気に演奏するというもので、終了時間は21時を過ぎていた。曲間に休憩を挟んだとはいえ、コンサートホールに7時間以上滞留していたことになるが、おそらく今までの最長時間を更新したことになるだろうか。さすがに途中かなり疲れてしまったが、しかし最後の曲になると、ある種の達成感というのか到達感があって、ついに聴き通した、と感慨深かった。
なお、この日の演奏については、後日ブログにて更新予定。
終演後、小ホールを出ると、隣の大ホールでは、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏会がまだ続いていた。こちらのほうは、全ての交響曲9曲を演奏することもあり、13:00の開演から、終演予定時刻は23:40となっていた。外に出てみると、いつもは人が多い上野駅周辺であるが、さすがに人は閑散としている。電車も空いていた。
そんなふうにして、その年を終え、新しい年を迎えている。
年末のベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴き通した帰り道、この年も随分コンサートを聴きにでかけたものだ、と改めて思った。ここ数年続けている、年間50回のコンサート通いをクリアしたことになる。でも、日々のあわただしさの中、音楽を聴くこと以外に余裕がなかったような気もする。走ってきて、今少し立ち止まってみてもいいのかもしれない。
今年は年間50回の目標はもう立てなくてもよいかもしれない。それより、音楽以外の時間ももう少しつくりだしてみようか、そんなことを考えながら閑散とした年末、帰路についていた。
ここ数年クラシック関係の本ばかりだから、小説などももっと読んでみたいと思う。けれども、中心は変わらないだろうけど。
今年1年、またどんな音楽と出会えるのだろうか。
2012年1月1日
”町中みんなで合唱団!”を観て(テレビ番組より) [DVD、テレビ、ラジオ、映画]
今年の年末は、今までよりも合唱曲を聴いて過ごした。
それは、この一年間、いつもの年よりコンサートで合唱付の曲を聴く機会が多かったことも関係したのだろう。「リスト ファウスト交響曲」、「ロッシーニ スターバト・マーテル」、「マーラー交響曲第3番」、「ブラームス ドイツ・レクイエム」、そして今月に聴いた「マーラー 交響曲第8番」と「ベートーヴェン交響曲第9番」。ひとりひとりの声が集まって、大きな歌を生み出す。そうした響きを、コンサートホールで共有することで、大きなものを感じることができるような気がする。
とはいえ、合唱曲への関わりはまだそれほど多くはないのだけど、こうした関心を惹きつけられたことのきっかけのひとつとして、とある合唱の番組をあげることができるだろう。
昨年、合唱指導者、ギャレス・マローンが取り組んだドキュメンタリー的な番組があったのだが、この番組が格別、印象に残っている。その番組は、イギリスの小さな町に、合唱団を結成して、クリスマスに披露する、その取り組みの過程と奮闘を追ったものだった。合唱に関心をもったことのない人々らを集めながら、事は簡単に進まず、数々の問題を乗り越えながら、最後の合唱のシーンはとても心を打つ、そんな内容だった。内容はもちろん良かったのだが、この番組を見て以来、それまであまり接点のなかった、合唱というものを多少身近に感じられるようになった気がした。
今年に入ってからも、このギャレス先生が今度は”ユース・オペラに挑戦”、というものも放映されていたのだが、先日、前回の合唱に取り組んだ続きの番組が放映された。
前回はレナード・コーエンの「ハレルヤ」などに取り組んだのだが、今回はさらなるレベルアップを図り、本格的な合唱曲に挑戦。前回がポップス系だったこともあり、何となくヘンデルやモーツァルトの時代あたりの曲か、もしくは何か開放的で温かみのあるような曲を取り上げるのかと思っていたら、完全に予想が外れた。チャレンジした曲は、なんとサミュエル・バーバーの「アニュス・デイ」。「弦楽のためのアダージョ」をコーラス用に編曲した曲に取り組む。静かに、ゆっくりと、深さを感じさせる曲である。
番組では最初はラテン語歌詞の問題に直面するなど、なかなか進捗しないが、最後には聖堂で合唱団が見事に歌いきってゆく。
この番組を観る少し前、いくつかの合唱曲やコーラスのCDを購入していたのだが、その中の1枚にフランスの合唱団「アクサンチュスAccentus」のCDがあった。ちょうどこの作品集中に、先のバーバーの曲が入っていたので、番組を観終わってから、このCDで聴いてみた。
原曲の「弦楽のためのアダージョ」はストリングスの響きが、聴くものの感情の深いところに達するような素晴らしい曲であるが、この曲のコーラス版は、その雰囲気を保ちつつ、そこに静謐な空気が加わってくるかのよう。人の声の重なりだけであるがため、曲のエッセンスは一層際立つような気がする。(ちなみにこのCDには、マーラーの交響曲第5番の第4楽章をコーラス用にアレンジした曲が入っているが、このコーラスがまた素晴らしい内容である。)
今まで合唱曲を全体的に聴いてしまうことが多かったが、この番組を観ていると、ひとりひとりの歌が集まり、重なり、そして響きあって合唱になってゆく、そうしたことを改めて実感させられた。
ちなみにこの番組、来年に2月に続編の「町中みんなで合唱団!~最後の大舞台~」が放映されるとのこと。
見逃さないようにしなくては。
NHKテレビ「地球ドラマチック」より ”町中みんなで合唱団! ~大聖堂への道~”
CD: 「Agnus Dei / Samuel Barber」 (Accentus/Transcriptions 2001)
リスト 「巡礼の年」 [CD]
今年もあと残すところ少なくなり、昨日、この一年間に聴いた音楽を振り返ってみた。その中で印象に残っていたひとつが、リストの作品だった。今年はリストの生誕200年ということもあって、今まであまり聴かなかったリスト作品に接することが多かった。とりわけ印象に残ったのが、「ファウスト交響曲」と、「巡礼の年」。こうして、回顧も含め、改めて「巡礼の年」を聴いてみた。
作品は 「第1年(スイス)」から始まって「第3年」まであるが、このうちまだ「第3年」はまだあまり聴いていなく、また断片的にしか聴いてないので、いつか作品全てを聴き通してみようとは思っていた。しかし全て聴くのには3時間ほど必要で、そんなに簡単にはまとまって聴くことはできないだろう。この時も、最初は「第1年」だけを聴くつもりだった。
ところが聴いているうちに、最初のCDが思いの他早く過ぎてゆく。なんとはなしに、次の「第2年(イタリア)」も続けて聴いてみる。そして翌日も続きを聴き、結局今回初めてこの作品を通しで聴くことになった。
十分聴きこんでいないこともあって、聴くたびに印象が少しずつ変わってゆく。今回初めて全曲を通しで聴いてみると、今まで見た事のなかった光景が過ぎってゆく。
戸外の空気やそよ風が開放感をもたらす音。
どっちつかずの居場所に、揺れながらとどまっているような音。
陽光が水面に降り注ぎ、きらきらとした反射を描いた音。
現実が過去の記憶へと置き換わり、そこから抽出されるある一点の時の記憶。またその反対に、特定のなにかではないような甘い記憶。
様々な光景が入れ替わり、立ち代り現れながら、扉を出入りしてゆくかのよう。
今回聴いていて印象に残ったのは、「第2年」の ペトラルカのソネット3曲。優しげで、甘美なたたずまいで、物憂げな様子もみせる。この3曲は比較的イメージが離れていなく、時を止めた時間の中を、過去に遡ってゆくようだ。その中でも、特にソネット第104番におけるラストの叙情感が素晴らしい。
だんだん聴いてゆくうちに、思考感覚が動かなくなってきた。「第1年」、「第2年」と続いて最後の「第3年」を聴くころには、やはり疲れてきたのだろう。こうした中、曲は有名な「 エステ荘の噴水 」に入る。
きらめくようなアルペジオの音を、ただ受け入れる。考えることなく、対峙することなく、ただ受け止める。目を閉じたまぶたの裏で、水面に反射した光のきらめきがまぶしい。
そんなふうにして聴いてゆく。
曲の始まりからなかなか焦点がつかみにくい曲が多いように思えるのだが、ずっと追っていると後半あたりにメロディが降り落ちてくる曲がある。感覚がニュートラルになりだした頃、突然旋律が心に触れてくる。
不安定な空間に提示された音のフラグメントに戸惑いながら。
停止しかけてゆく時間の中、ゆらめく炎を見つめながら。
時のしずくが、ゆっくりと落ちてゆく様を眺めながら。
そうして、聴いていた。
夢と現実が行き来する中を漂ってゆく。
この音楽は一体、どこに連れてゆこうとしているのだろうか。
きっとこの先も、いくつかの光景を見せてくれるのだろう。
リスト「巡礼の年」complete recording (3CD) / Lazar Berman 1977
スターバト・マーテル / T. スカルパ [Book]
「スターバト・マーテル」という言葉の持つ魅力については、以前ロッシーニの音楽を聴いたときに書いたブログでも言及しているが、最初にこの本のタイトルを目にした時、やはり読まないわけにはゆかない、と感じた。
「スターバト・マーテル」の発する語感が、なぜだろう、自分を惹き付けて止まないのだ。
イタリアの作家の、ヴィヴァルディに関する本。小説のような形式をとりながら、背景や人物像の描写は徹底的に描かれてはいない。むしろ固有の情報はかなり限定されて提示されいる。物語の展開はもちろんあるのだが、常に行間があり、思考が行きつ戻りつしながら、進行してゆく。
開始から文章は断片的で、なかなか全体像が見えてこない。主人公である、孤児として養育院で暮らす少女のモノローグが次々に現れてくる。
短いパラグラフにより構成されているため、流れが常に途切れてゆく。とめどもないもの想いの積み重なりあい。物語のような流麗な流れはなく、想念の断片が、つづられてゆく。そこでは時間的連続性が時には寸断され、あいまいに推移してゆく。そして孤独で、内に向かってゆくモノローグ。イメージは内面の情景が幻視とあいまって、時に屈折的に浮遊してゆく。
中盤までは、そうしたムードで進んでゆく。どうもこの小説は音楽との係わり合いが薄いのだろうか、そんなことを意識し始めた頃、音楽が浮上してくる。新任の教師としてヴィヴァルディが登場してくると、音楽が表出してくる。それはまるで、奥底に潜んでいた情念が音楽となって引き上げられてきたかのように。
抑制されていたものが、その鎖を解き放たれたとき、一気に噴出してゆく。とどめてきたきたものの防波堤が崩れ去り、むき出しで、激烈な音楽が流れ出す。
そして、そこに想像力の翼を広げ、自由奔放に奏でることが加わってゆく。音楽は、無限の広がりを与えられ、一気に駆け抜けてゆく。日常生活の中で持ちえた様々な想像力を駆使しながら、楽器という媒介物と通じて、やがてそれらは音楽という奔流となって生み出されてゆく。
確かに、音楽を聴いているときのイメージの源泉の多くは、むしろ音楽の鳴っていないような状況の中で育まれているのではないだろうか。例えばこの小説を読んでいたある日の朝、通勤時の道路沿いのイチョウの木を眺めていたときのこと。冬の朝の光が入り込み、黄色く色づいた銀杏の葉が目に映えてくる。そこで感じていた光の角度、寒さ、色彩、そして朝の喧騒さ。そこで感じるものがあって、こうした中でイメージされたもの、感覚に訴求してくるものが、記憶の断片として残ってゆく。それらはやがて風に吹かれ、落ち葉となって、そして厳しい季節にさらされてゆく。そうした抽象化された無形のものが、音楽を聴くということの中で、呼び起こされていくのだろう。音楽は日常生活の中で感じた無数のイメージの集積にノックし、そこから何かが触発されるてゆく。
この小説は、ひとつひとつの段落が非常に短くなっている。このため段落の間に多くの行間が存在し、読み手にスペースを与えているようだ。パラグラフ間の隙間が、読み手の空想力や想像力を喚起し、刺激するかのように。
楽器が奏でるシーンや演奏会の場面では、言葉の合間から音楽があふれ出てくる。言葉や文章として表現された音楽は、圧倒的な音のリアリティとともに、激しく、強烈に、自由に駆け巡ってゆく。
ヴィヴァルディの作品の「スターバト・マーテル」は、未だ聴いたことがないが、この小説を読むことで、なにか十分な音楽体験をさせられた気がした。
スターバト・マーテル (ティツィアーノ・スカルパ 著)河出書房新社
以前書いたロッシーニのブログ:http://presto-largo-roadto.blog.so-net.ne.jp/2011-02-12
ラヴェル「ラ・ヴァルス」 [コンサート]
3日間の海外出張を終え、日本に戻ってきたのは夕方の時刻だった。海外にいると予測不能事態がいろいろ起こり、何かと緊張を緩めることができなかったから、空港に着いたあたりで、ほっとした気分があった。空港からのバスに乗りながら、窓の外に広がる夕方から夜の闇に移りゆく時間帯を眺めながつつ、ふとジャズが聴きたいな、と思った。ピアノトリオではなく、サックスの入ったもの。
携帯プレーヤーの中から、アート・ペッパーを選ぶ。ペッパーについては、若い頃の作品と、麻薬治療の後に復活した晩年の作品によく分けられることが多いが、個人的には晩年の作品にひかれる。この日聴いたのは、1978年に録音された作品で、全曲素晴らしい出来といえないかもしれない。しかし、このアルバムの中、10分を越えるバラード、”Patricia”の演奏には、情感を湛えた深みのあるサックスの音に心を奪われる。バスの窓から眺めたビルのネオン、車のテールランプ、昼の世界には見せなかったまばゆい光の表情の中、闇の深まりとともに、ペッパーのサックスが心に染み渡ってゆく。
アート・ペッパーは最晩年の年に、「Goin' Home」というアルバムを録音しているが、この冒頭曲ではドヴォルザークの交響曲第9番の第2楽章をアレンジした曲を吹いている。アルトサックス奏者であるが、この曲にはクラリネットを使っている。ペッパーは、きっとジャズ以外の音楽もいろいろ耳にしていたのだろう。そうした中、晩年の心境の変化とともに、心に触れた旋律を吹いたのだろうか。クラリネットという楽器の音色をどんなふうに感じていたのだろうか。いろいろなことが頭の中をよぎってゆく。
夕方の明るみは、あっという間に暮れてゆき、気がつくと周囲はすっかり闇に覆われていた。そんな景色を眺めながら、とりとめのないことが次々と頭の中を通過してゆく。車で移動した長かった時間、海外の見慣れぬ街中の景色、今現在帰ってきた自分の住んでいる都市、それらの光景が重なりつつ、まろやかな時間が流れてゆく。
帰宅後、翌日のコンサートの準備にクラシックの曲を聴こうかと思ったが、なかなかジャズの気分から抜け出せなく、結局当日そのままホールに出かけていった。
この日はパリをテーマにした曲を前半後半2曲づつ、計4曲組合せるプログラム。前半は疲労や集中力の欠落のせいもあってか、時間がすっと過ぎてしまった。休憩で少しリフレッシュしようと思ったが、後半の冒頭は、聴いたことのないベルクの曲。ちょっと現在の少しジャズの残った気分では、かみ合わないかもしれない、と思いつつ、とにかく音に集中しようとしてみた。
ベルクの「ルル組曲」は大編成だった。音楽は不安定な雰囲気。なんとかついてゆこうと、聴いていると、あれっ、と思った音が耳に飛び込んできた。ステージを見ると、アルトサックスの音である。クラシックのコンサートでは、頻繁にみかけることのない楽器。しかも結構クローズアップされていて、随所にサックスの音が入ってくる。
ペッパーのことが頭の片隅にあったことも手伝って、すごくサックスの音が気になった。クラシックものの中ではあまり使われてないから結構新鮮さがある。そうこうしているうちに、自然と音楽自体にも耳を傾け始めていた。なかなか難しい音楽で、全体が見えにくい。しかしわからないなりに音楽に付いてゆくことができる。構造が見えないながら、音楽に牽引されてゆく。初めて聴く曲で、こうした状態は悪くない。
ソプラノの歌があって、最後の第5曲、音楽はクライマックスの叫びのような音に非常に驚かされ、閉じてゆく。前半の曲とは全く異なる雰囲気であったが、最後まで密度の高い時間を保持したまま音楽を運んできた、そんな印象があった。
ペッパーの音楽とベルクの音楽の関連性はなかったしても、サックスを媒介にして、偶然の一致を組み込みながら、それなりに充実した時間が過ごせた気がした。
ラストは、ラヴェルのラ・ヴァルス。10分程度の曲で、今まで何度か聴いているから、おおよその感じも多少わかる。きっと、この日のプログラムは、このワルツのような軽快な曲で締めくくるのだろう、と思っていた。
しかしそうではなかった。
冒頭の音は、ざわざわとして、揺れが何か定まらないのだが、途中でワルツの音楽がぱっと広がってゆく。しかし、演奏にはしなやかさと、音楽から自然発生する身体の揺れがある。全然平べったくない。踊りの横揺れ、軽いスィング感のようなものが音にあって、出てくる音が踊っているようだ。
そして、この日の指揮者、山田和樹の動きが、音楽そのものを体現していたように思える。曲の中にあるリズムや揺れをふわりと身体に投じ、なめらかに、しなやかに身体的動きに反映させてゆく。そのなんとも自然体な動き。そして終盤にかけて音がエスカレートしながら、動きは広くダイナミックに変化してゆく。徐々に速度を増しながら、動きも広く大きくなり、そこに音楽がぴたっと重なる。指揮者の動きとオーケストラの音楽が一致して、進行してゆく。陶然とした流れがあったような気がした。
ラベルのこの曲はこんな曲だったのか、と何度か聴いてきたはずの曲を、まるで初めて聴いたかのような気分で聴き終えた。音楽が終わり大きな拍手に包まれながら、ラ・ヴァルスのサウンドに何か心地よく酔わされたような、そんな気分が残っていた。
2011/12/10 日本フィル定期演奏会 サントリーホール
CD : Today / Art Pepper (1978)
マーラー 交響曲第8番 [コンサート]
最初にマーラーの交響曲を聴いた時、わからないなりにも、手ごたえがあった。
わからないまま、長い時間その音楽に付いてゆくうちに、何かが触れてくる。全体構成は見えなかったものの、聴いた後、毎回何かが残った。マーラーの交響曲を聴くと、そんな手ごたえがあって、そうしたことが続いたある時、この作曲家の交響曲は全てコンサートで聴いてみよう、と心にした。その後自分自身で、この取組みを「マーラー・チクルス」と一人勝手に名づけつつ、意識的に取り組んでいった。
第1番、4番、5番は比較的演奏機会が多いから、このあたりは早い段階で聴けた。これらの曲は、その後も何度か聴くことがあった。さらに数年かけながら、第2番、6番、7番、9番、10番と聴き進んでゆく。しかし、第3番、8番と”大地の歌”は機会にめぐり合えないまま時間が過ぎていった。やはり合唱付の交響曲は、なかなか演奏機会が多くなく、かなり待たされた。
こうした中、ようやく今年に入って第3番を聴くことができ、そして今回第8番を聴けることになった。
さて大規模な編成を必要とする、交響曲第8番であるが、やはり手ごわい。前回相当の事前準備をかけて、長大な合唱付の第3番に取り組んできたが、この8番も大規模で、長大で、合唱があるため、ある種の相似点がある。しかし、第3番は独唱や合唱を限られた楽章に限定的に使用していたのに対し、8番は独唱や重唱、合唱のウェイトがとにかく大きい。その分純然たるオーケストラの演奏のみの箇所は少なくなってる。
そして、楽章構成がなく、第1部の精霊讃歌と2部のゲーテ「ファウスト」のテキスト、という2部編成をとっている。解説や歌詞を読んだりしたものの、音楽との関係性が今ひとつわからなかった。十分とはいえないが、実際の音楽を聴いたらまた、随分違うのだろうという感じはあった。
ここ数日は急速に冷え込んだものの、夕方には少し緩んだ空気の中、コンサートホールに向かう。
いつもはかなり広く感じることの多いNHKホールだが、この日は合唱パート、演奏者が次々と入場してゆくうちに、ステージはびっしりと人であふれかえった。
第1部の開始から合唱が入ってくる。途中鐘の音が鳴る。合唱と独唱が重なり合い、交互に歌いながら、歌が大きな広がりを生み出してゆく。後半から、全体的に盛り上がってゆき、最後の”GLORIA”の部分でのソプラノの高音は全身を投げ出すかのような、突き抜けてゆく声に圧倒される。
第2部の冒頭は器楽演奏がメイン。ほとんどが合唱と独唱が入るこの曲の中で、最も長く歌が入ってこない時間帯だろうか。管楽器の物寂しげな音から始まり、途中でマーラーらしい旋律に展開してゆく。
その後バリトン・バスの独唱から合唱、テノール独唱。そしてハープの音が優しく入り込んできて、ソプラノ・アルト独唱、と続いてゆく。そして聖母の声は、高い位置に設置されているオルガンの傍から歌われたが、何か高いところから降り注いでくるかのようだった。
その後に続くテノール独唱から始まってゆく流れは、静謐さの中から、透明な高みに向かってゆくような演奏が続く。そしてフィナーレにかけては、音楽のスケールが徐々に大きくなり、大勢の声とたくさんの楽器が生み出す音楽の存在感に、ただただ圧倒される。
確かに物理的にコーラスや楽器数が多いということもあるのだが、しかし、これだけの大規模な編成から繰り出される壮大な音を前にして、適切な言葉の見つからない、何かそんな大きな音楽を実感していた。
フィナーレは雄大な渦の中、ただ音楽に飲み込まれてゆくようだった。
聴く前はとらえどころの見えにくい作品のような印象もあったが、聴き終えてみると音楽の潮流には案外、安定したものがあったのかもしれない。多くのマーラーの交響曲のように、難解な部分や、アップダウンの激しさを内包するような要素が、この交響曲にあまり見当たらない。優しげな、包まれたような、壮大な音楽が最後まで持続して流れてゆく、そんな曲なのかもしれない。
今回ステージ袖に対訳がついていたが、あまり見ることはなかった。歌われている言葉の意味や歌詞はわからなくても、合唱や独唱の声自体で十分だったような気がする。
人の声が集まって、大きな歌を形成する。その産み出された声が、大きな説得力で響き渡ってゆく。
「マーラー・チクルス」を掲げてから4~5年程の歳月がかかったが、ようやく輪の完成が近づいてきたようだ。来年は最後に残った”大地の歌”を聴く予定である。
2011/12/3 NHK交響楽団 定期公演 NHKホール
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